Daily Occurrence

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episode6 初陣と少しの挫折。



仕事を辞めた俺はスケジュールにも余裕が出来て幾度とスタジオへ入った。

スタッフの提案でやはりTEXASはライブバンド。
ライブしようという運びになった。

場所は渋谷サイクロン。
ライブはTEXAS STYLEの名前を伏せて完全シークレットで行った。

今振り返ると死にたくなる程のステージだ。
ぎこちない動作。中途半端すぎる煽り。
因みに当時の映像は、戒めとして我が家のハードディスクに残してある。笑

個人的デビュー戦は散々な結果に終わったが、そこで今でも俺がベーシストとしての師と仰ぐ渋谷サイクロン/マイライトの三浦さんと出会う。
「お前はこうなれ」と徐に差し出された写真集はポールシムノンのものだった。

演奏は置いておいて、ステージングや立ち振る舞いなど、見てくれの修業を始めた。
バカである。笑

こうしてライブハウスデビューを果たした。

個人的な初ライブを終え、TEXAS STYLEとしてのライブを行った。
ここで俺たちは全曲新曲という暴挙に出た。
必死で既存曲を練習した意味はこの際置いて置こう。

暫くのライブはただただ必死だった。
自分のステージを自分で把握しよう。
とてつもなくかっこつけなければ。
あ、また間違えた...。
周りが見えていないとはまさにこの事だ。
了承したとは言え、良く和夫もおできも耐えてくれたと思う。
マジ感謝。

正直、見兼ねたお客さんは離れてしまったし、自分の選択は、バンドの選択は間違っていたんじゃないか。
前に進むと決めたはずの意思は既に折れかかっていた。
完全に自分を棚に上げた状態だった。
ちょっと待て。
お客さんは俺を観に来てるわけじゃないんだ。そうだ。気にせず行こう。
こうして色んな柵から脱却して行った。
反骨精神の賜物だ。(完全なる勘違い)

episode5 髪結師と四弦。



晴れて東京デビューを果たした俺だが、内見もせずに決めた部屋へ行き驚愕した。
まさに開いた口が塞がらない状態だ。
部屋に窓が1枚しかない。

見開いた目と口を見て、不動産屋が契約時の資料を見て納得した顔をした。
そして丁寧に説明してくれた。
雪国には多いが都内はほとんど窓が1枚だと。

これが人生において1番のカルチャーショックだ。

まあ、そんな事もありながら美容師としての生活がスタートした。

美容室へ勤めながらもTEXAS STYLEの動向はチェックしてた。
火曜休みでライブがある日何かは足を運んだ。
当時の様に中途半端なローディーとして。
使える時間はTEXASのサポートをしたかった。

この頃から気晴らしに和夫と後輩(地元の後輩で俺より1年先に上京していた)とスタジオへ入ったりした。
何をする訳でも無くたどたどしくNirvanaのコピーなんかをしてたと思う。
俺の上京直前に和夫から貰った音源の曲何かもやった。てっきりTEXASの曲だと思っていた。

休みの日に数回そんなスタジオ遊びをしてた。
ある日和夫からTEXASとは別にバンドを組もうっていう提案があった。
もちろん遊んでたノリでの話だと思って喜んで了承した。

それから何度かスタジオに入った。
たくさん話した。
夜勤のバイトがしんどいって話。
村上春樹の話やら洋楽バンドの話やらたわいもない話の中にTEXASを辞めようとしている話もあった。
それで新バンドのメンバーとして俺を考えてるって話も聞いた。

初めはもちろん反対だった。
ど素人がTEXASなんか出来るわけない。
この頃の俺にとってTEXASはデビューしたてで勢いもあるバンドで何よりも俺はTEXASのいちファンであったからだ。

この頃俺は美容師っていう仕事に疑問を抱いてた。
細かい話で個人的な会見でもあるからここでは割愛する。

話を戻す。
TEXAS加入ではなく全くの別バンドで尚且つ休みの日にしかできない。
それでも良いならやろうと提案した。
和夫の答えはOKだった。

それから色々あったんだと思う。
メンバー、レーベルやレコード会社との話合い。

しばらくして和夫の口からTEXAS加入の話が出た。
和夫が思っていること全部吐き出してくれた。
まだまだ売れるようなバンドでもないし人生がめちゃくちゃになるかもしれない。
素人だろうが関係ない。
俺は、俺の事よりも今のTEXASが崩れてしまうこと。
ユウジのこと。
壊してしまうくらいならやりたくなんかない。
スタジオで、家で、車の中で本当に色んな話をした。
散々話した後、「俺についてきて後悔はさせない。」っていう20歳の男が言ったあまりにもリアルな言葉に俺は撃ち抜かれた。


数日後、俺はオーナーに退職すると告げた。


TEXAS加入の話が進んでいった。
最初の壁は既存曲の演奏。
ただひたすら弾いた。
わからないとこは和夫に確認しながらもなんとか形になるように弾きまくった。
気がかりはユウジとの確執だった。
そしてこの時まだ俺はおでき...いや、おできさんと呼んでいた。
且つ、敬語で話していた。

TEXASのツアーが落ち着いて、スタジオへ入った。
レーベル、レコード会社の社長やスタッフが並ぶ目の前での演奏。

出来の良し悪しや批評をされる訳でもなく淡々とスタジオは終わった。

少し経って当時のプロデューサーからの提案で御茶ノ水へベースを買いに行った。
Fender japanの黒いプレべだった。

こうしてバンドマン、ベーシストとしての人生がスタートした。



episode4 空白の2年。



TEXAS STYLEが活動拠点を東京へ移し、俺は盛岡の美容学校へ進んだ。
この期間、全くと言って良いほどバンドや音楽から離れた。

美容学校へ通いながら夜な夜な彫り物の練習なんかをして毎日過ごしてた。
気にはしていたけど何せ当時の俺には東京っていう場所があまりにも遠い場所だった。

1年経って、和夫から連絡が来た。
CDをリリースする。そしてツアーで盛岡に来ると。
自分の事のように嬉しかった。
当時記事が載った雑誌を買いに行った。カラーだぞー!おい!インタビューなんか受けてるし!
当時19歳。
すげーよって。
地元近辺で学生の俺には遠い遠い世界。
ライブで観たTEXAS STYLEは全然知らねえ人みたいだし。
単純に友達で良かったって思った。

この時俺は俺の進む道で頑張ろうって思えた。
それから徐々に和夫と連絡を取るようになった。
コンビニの夜勤をしながら活動してること。
当時のプロデューサーと馬が合わないこと。
部屋が4畳半窓なしだってこととか笑。

少しだが時間が空いても尚、赤裸々に話してくれてたと思う。
その頃から多分俺は東京って街への興味が湧いてきてた。
何かの縁で都内の美容室のオーナーさんから就職の話を頂いた。
気持ちはあれど俺は一人っ子だ。
地元を離れても良いものか。今まで好き勝手させてもらってまだ欲を出すのか。幾度となく夜な夜な悩んだ。
そんな俺の背中を押してくれたのは親友でもなく友達でもなく両親だった。

今でも本当に感謝の念が尽きない。
この場を借りて改めてお礼の気持ちを伝えたい。
ありがとう。

美容学校の卒業と就職を機に、俺の活動拠点も東京へと移った。

episode3 新たな門出と変化。



中学卒業後、隣町の高校へ進学した。
この同高校への進学が和夫との壁を低くしたことは言うまでもない。

高校の時TEXAS STYLEはオリジナルの楽曲制作を開始していて、八戸や盛岡といった地元から少し離れた土地へ行きライブハウスでの活動を始めた。
これは余談だけど、企画もののオムニバスアルバムなんかにも参加してた。多分その某音源がTEXAS STYLEとして初の流通音源なはず笑

当時、特にスタッフでもない中途半端なローディーみたいな連中を高校生バンドが連れて歩くんだから今思うと面白い光景だ。
惑星、THE NEAT BEATS、うつみようこ&ヨコロコバンドといった今考えても豪華過ぎるバンドの前座で出てた。
仙台なんかへもライブしに行ってた。今でも記憶にあるのが当時まだ移転前のバードランド。
薄暗くて汚くて正にライブハウスって感じがした。

この日の打ち上げが某ライブハウスの店長と初めて呑み交わした日である。この日言われた言葉は今でも俺の大事な言葉になってる。

相変わらず、俺の実家はTEXAS STYLEの練習場所。
オリジナルの楽曲制作を始めるって事で何処からかMTRを入手してきた。何度か変わってるとは思うけどつい最近の音源制作までこのMTRは大活躍している。

楽曲制作と称して学校を抜け出す事もあった。
当時の楽曲から合わせたら今でもすごい曲数だと思う。

和夫とユウジの高校卒業を目の前にしてTEXAS STYLE解散ライブなるものを実は1度開催している。
この時練習試合をすっぽかして準備を手伝った。部活部長なのに。
もちろん場所は地元の貸しホールで。
確か20曲くらいやってた。
今のワンマンと変わんねーくらいの曲数。今思い出してもすごいな。笑

解散ライブを無事終えてみんな高校も卒業した。
TEXAS STYLEは東京へ行った。
厳密に言うとややこしいからこう記しておくことにする。
和夫が地元を離れる時、餞別の煙草を持って見送りに行った。

付き合いが長くなるにつれても、この頃まだバンドをやるなんて微塵も思っていなかった。

episode2 興味と踏む二の足。



TEXAS STYLEとロックンロールと出会った。
だからと行って特にベースに目がいって楽器に興味が出たとか、ロックやりたいって気持ちは少しも出てこなかった。
定期的に開催されるイベントに足を運んでは前回よりも少しだけ詳しくなった自分が前回よりも少しだけノれる。
本当それくらいだった。

進展があったのは中3の夏だったと思う。
今で親友と呼べる仲間ではあるが、当時はイケイケで何の接点もい友人Sが近くに引越して来たことだった。
初めて話したのは確か帰り道の公園。
帰り道と言っても俺の実家は山奥で歩くと小一時間かかる。
Sは車の迎えを待っていたらしく乗ってくか?と声を掛けてくれた。
迎えが来るまでたわいもない話をした。
慣れた仕草で煙草に火を付ける姿が印象的だった。
それから程なくしてSとの交流が増えてった。
暫くしてから和夫たちがバンドの練習場所を探してるみたいだという相談をSから受けた。

俺は二つ返事で了承した。
山奥で音出してもほぼ問題は無いし、それなりにスペースもある。
まあ、少し遠いってのは問題だったろうけど。

その頃だったと思う。
まともに和夫と話したのも。
前ベースのユウジは一時期クラスも一緒だったことで大した壁も無かった。まあ何よりみんなバスケ部だったから並には話すくらい。
その時のおできは年代的にも雲の上の人だった。

俺たちが中学3年の時もまるで伝統の如くDIYなイベントに参加した。
機材を運んだり、ビラ配ったり。そんな作業の方が正直向いてる。
目の前で演奏する彼らを観て、自分が楽器を手にするなんて姿も考えも浮かばなかった。

そのまま流れて中学を無事卒業した。

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